アラシノチハレ

戦後最悪の国難に入っている日本、表面上は静かですが、中は火事。

核は無くならず、いずれ家庭にも入ってくる

超危険物の核、しかし確実に進化しています

 岸田首相が地元広島の顔色を気にして言下に否定した核共有論。
自身の賛否はともかく、議員たちの議論はさせるべきなのに国のトップとしての責任感は全くありません。
完全に民主主義の否定であり、独裁的言論弾圧と言えます。

ここまで来ると広島という町そのものの存在にさえ疑問を抱かされます。
広島は無いほうが日本のためじゃないか、と誰でも思わされます。

 一方では、核の平和利用である小型原発も実用化が視野に入り、もはや核開発抜きでは国の存立、国民生活すら成り立たなくなりつつあります。

電力会社は今でも綱渡りなのに、現有原発を再稼働させねば今夏の暑さや次の冬の寒さで電源喪失という非常事態になりかねず、死者も出かねません。

これは再生可能エネルギーという不安定極まる電源に力を入れ、安定電源の原発と火力を”気分で軽視”してきた結果です

電源事情は各国で違い、日本には日本の事情があります。
それを無視して世界の流行でしかない再生可能エネルギーで電源を保持しようとは、自殺行為です。

再生可能エネルギー重視は亡国の暴論です。
気に食わずとも現実を直視し、客観的に判断すべきときです。

ご近所の悪(わる)と広島から来た支店長

 保有国は核放棄は絶対にしません。
核放棄した瞬間に負けが確定するのですから当然です。
「核無き世界」の正体とは、「一発でも多く隠した奴が世界の支配者になる」という詐欺的思想です。

日本の非核三原則に至っては、左翼や反核派の政治的玩具に過ぎません。
人類はもう核は手放さず、手放せません。
これからも核は拡散し、拡大し、いずれ世界は核で埋まります。

ヒロシマナガサキという印籠は世界には通じません。
被爆都市がどうした、そのために社会も経済も滅べと言うのでしょうか。
反核は誤解と過去の遺物であり、これからは核と共存するしか道はありません。

核の存在を容認し、原発を稼働し、小型原発を進化させ、核研究と開発に力を入れ、放射線被害の絶滅と軽減の研究を強化していくべきです。

核利用も当時と今では天と地ほど違います。

核利用の研究は環境さえ整えれば、圧倒的に早くなります。

それこそがヒロシマナガサキの多大な犠牲を無駄にしないことにつながります。
幟と旗とプラカードに怒声と罵倒で核無き世界は実現なんかしません。
ガキの遊びもいい加減にしろ、と言いたい。

いまの反核反戦運動は式典のための反核運動でしかありません。

左翼や反核派のバカの一つ覚えと能無しには、あきれるしかありません。

原爆犠牲者追悼の式典に安倍晋三首相(当時)が参席すれば、野次と罵声の嵐、こんな反核反運動なんぞ暴力野党がのさばる国会と同じです。
何が反戦か何が反核か、笑わせるな活動家ども、と思います。

元から共産党社会党(現社民党)、そして総評と日教組、左翼と朝日新聞社が叫び主導し、反核反戦を煽ってきたのですから、こういう現状になるのも当たり前です。

朝日新聞社の読者が減るとともに、赤字が増えるとともにヒロシマナガサキも劣化してきたように思えます。
あの朝日新聞社とくっついて、良きことになった企業も組織も個人も絶無です。

朝日新聞社というのは、「不幸を運んでくる中小企業的印刷屋」に過ぎません。

こんな反核運動なんぞほっておくべきです。
将来を見据え、未来を計画しながら、核を上手に使いまわし、人類の役に立たせるべきです。

ヒロシマナガサキの看板に日本国どころか、人類の未来はありません。

原発が攻撃されたらどうする?と言われますが、九条があれば戦争は起きないし、起こせもしないのでしょ?

大和も一日にしてならず、核研究と開発も同様です。